父は、兄である霞流塁嗣に対しては露骨に嫌悪を表した。慎二はそこまでの扱いは受けなかったが、愛されているとは思えなかった。むしろ、不在がちだが帰ってきた時には笑顔で抱きしめてくれる母の方が、よほど自分を大切にしてくれていると感じていた。
男ばかりの家の中で、母を恋しいと感じていた。母がいつ帰ってくるのかといつも心待ちにし、母が帰ってくる日は、どんな事があっても走って家へ帰った。
慎二は母が好きだった。とても好きだった。
なぜだろう? なぜ父は、自分を遠ざけ、兄を嫌うのだろう?
だが、慎二がそのような疑問を口にすると、父は鬱陶しそうに唸る。
「男のくせに、女々しく親の気を引こうなどとするな」
自分は女々しいのだろうか? このようにあれこれと考え込むのは、みっともない事なのだろうか?
答えを知る機会は突然訪れた。慎二が中学一年、兄の塁嗣が三年の時。受験を控えた塁嗣が父と口論になった時の事だった。
「浮気相手の子供なんぞを、なぜ高校へ進学させなきゃならんのだっ」
慎二は全身が硬直した。リビングの前で、喉の渇きを潤すために何か飲もうとキッチンへ向かう途中、体が動かなくなった。
目の前が真っ暗になり、呼吸すらできなかった。指一本動かなくなってしまった体に無理矢理に力を入れ、首を捻った。自分の体でありながら、まるで人形のようにギチギチと軋む音を立てているかのようだった。
怒鳴られた兄は、真正面から父を見据えていた。その顔には、落胆も、絶望も、驚愕もなかった。いつものように、柔らかな表情で父と向かい合っていた。
「知ってるよ」
ただ一言、そう言った。
塁嗣は自分の出生を、ずっと小さい頃に知らされていた。無知で浅はかな使用人が己の好奇心を満たすために噂し合っていたのを、聞いてしまったのだ。
慎二は、嘘だと思った。
塁嗣は小さい頃から物分りの良い子供だった。成績も良く、運動なら何でもそつなくこなし、明るく友達も多く、親に対して口答えなどはほとんどしなかった。友達と一緒になってヤンチャな悪戯をする事はあっても、大きな騒動を起こすような事はなかった。
父親に毛嫌いされている事は知っていたはずだが、慎二のように疑問を持ったり好かれようと媚びたり、逆に反発したり拗ねて捻くれたりするような事もなかった。普通の、大した悩みも苦しみも持たない、ごく普通の子供として生活をしているように見えた。
そんな兄が、実は自分の出生を知っていたなどとは、慎二には到底信じられなかった。
母の不義によって生まれたなどと知ったら、自分だったらとても耐えられない。少なくとも、父と一緒になどは暮らせない。
だが兄の塁嗣は、好かれてはいないという事実を受け止めながらも、家の中に入れば父親とは必要な会話も交わし、避ける事も攻撃的になる事もなかった。
父親が兄を嫌う一方で、兄は他の人間に接するのと同じように、父親とも接していたのだ。まるで父親に嫌われている事など、何でもないと言うかのように―――
慎二は目を見張った。
父親に嫌われているのを知っていながら、不思議なほど兄は自然体で父親と接していた。そう、不思議なほどに。
自分の出生を知っていたから、だから兄は父に対して疑問も反発も抱かなかったという事か。なぜ自分が嫌われているのか、その理由を知っていたから、嫌われても仕方のない存在だとわかっていたから、自分ではどうしようもない事実なのだと理解してしまっていたから、だから兄は父に対して反抗心も抱かなかったという事なのか?
「信じられないと、慎二は言っていたわ」
智論は指をテーブルの上に滑らせて語る。
「自分の出生を知っていながら、何でもないかのように明るく振舞う兄という存在が、慎二には信じられなかった。当然だと思うわ。私もその話を聞いた時、異常だとすら思ったもの」
出来が良く、父親に愛される長男と、いつも朗らかに明るく振舞う友達も多い次男。二人の兄から見れば自分は何と不出来な存在なのか。だから父親からも疎まれるのだろうか。そんな劣等感のような感情を胸に抱えていた内向的な慎二にとって、すぐ上の兄である塁嗣は憧れの存在でもあった。
その兄がそのような妥協的な生き方をしていたのかという衝撃に頭は混乱し、やがて混乱は不信感に変わった。
「男のくせに、女々しく親の気を引こうなどとするな」
女々しく親の気を引こうとしてはいけない。塁嗣に比べれば、自分はまだ恵まれている方なのだから。
だから自分は、これ以上の幸せを望んではいけないのか。
不幸な兄がこのように飄々と生きているのに、自分があれこれと悩むのはいけない事なのか? 自分は兄よりも恵まれた環境で生まれてきたのだから、自分の置かれた環境に疑問や不満を持つ事は、贅沢な事なのか? こんな自分は長男からも、そして次男の塁嗣からもはやり劣っているのか?
それまで以上に増幅する劣等感。
そして母に対しても―――
大好きな母が、実は父を裏切るような行為を犯していた。その事実もまた慎二にとっては衝撃的だった。自分という存在が両親の打算的な関係によって生まれたのかという事実にもショックだった。
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